戦火に散った写真家ロバート・キャパ


数々の素晴らしい作品を遺したロバート・キャパの写真をご覧になったことはありますか?
戦争という悲惨な時代の中で、常に撮影の対象となる人物、現実を、真正面から捉え撮り続けられた彼の写真は、たとえそれが何十年前のものであろうと、その写真の中にいる人達は、まるで今、自分のすぐ目の前にいるような、そしてその人達の息遣いや話し声までもが聞こえてくるような錯覚に引き込まれるほど、時の流れも国境も超越し、人間の中に在る永遠に変わることなく息づく愛や希望 ― あるいは悲哀が溢れています。
キャパの写真を見る度に、苛酷な時代に生きた、先のすべての人々を想い、あらためて平和の尊さをかみしめます。

ロバート・キャパ

1913年、ハンガリーの首都ブタペストに生まれる。本名はアンドレ・エルネー・フリードマン。両親は婦人服店を経営するユダヤ人だった。兄(ラースロー)と弟のコルネル(後にコーネルと称する)の3人兄弟。両親は子供達をとても愛し育てたという。

1931年、当時のハンガリー政府はファシストで反ユダヤ主義の独裁下にあったため、17歳のキャパはユダヤ人学生として左翼運動にかかわり国外追放されることになる。行き先はベルリン、17歳にして政治亡命者となったキャパはそこでジャーナリストになる勉強をはじめ、その後2度と自分の家を持つことはなかった。

高等専門学校のジャーナリズム学部に籍を置くが、1931年末に起きた世界的な経済不況のため、両親からの送金が途絶え貧窮に陥り、写真代理店の暗室係助手として働くようになる。ここで一流のフォト・ジャーナリスト達の活躍を間近にし、労働許可も下りず言葉もよくわからない自分がこの外国やっていくには「写真」だと閃く。なぜなら写真は、万国共通の言葉のいらないコミュニケーションであるから
 

フォト・ジャーナリストを目指したキャパの最初の特ダネは1932年、ロシアの亡命革命リーダー、レオン・トロッキーがコペンハーゲンで演説するのを隠し撮りしたセンセーショナルな写真で、これが公の刊行物に載った彼の初めての写真となる。しかし1933年初頭、ヒトラーが権力を獲得し始めナチス化が進むドイツを逃れることになり、ウィーン、ブダペストを経て、パリに入る。

一時、モンパルナスを根拠に仕事をしている東欧亡命者達の社会に身を落ち着けたが、1936年、フランス国民が左翼連立人民戦線の政府を選んだ時の、社会の政治的動乱により、パリの街頭に繰り広げられたデモやパレードを次々に撮影、大きな反響を呼び、キャパの写真は雑誌の表紙を飾ることとなる。
1936年、スペイン戦争が勃発すると、キャパはまだ写真をはじめたばかりの恋人
彼の生涯における最愛の女性となるゲルダ・タローとともに、戦闘を取材するためバルセロナへ赴く。
キャパは取材に率先し、戦闘たけなわの最前線へ出る。そこで彼が撮った写真 、 まるで砲弾の爆音や機関銃の連射音が今にも聞こえてきそうな、リアリティな戦争写真は、それを見た人々に衝撃を与えた。

しかし翌1937年、単独で取材活動をしていたゲルダは共和国軍戦車に轢かれ死亡してしまう。彼女と結婚するつもりでいたキャパには大きな打撃だったという。



その後キャパは、1938年に日中戦争や、パリに戻ってからは、反乱軍が勝利を納めたスペイン戦争で、フランスに逃れてくる共和国軍兵士などを取材する。

そして1939年、第二次世界大戦が勃発。

パリにいることに危機感を感じたキャパは、その頃母と弟が住んでいたニューヨークに渡り、写真誌「ライフ」と契約、国内取材を続けるが、1941年、彼にとっては刺激が少ない取材には嫌気がさしていたこと、また、この年日本軍が真珠湾を攻撃、アメリカの第二次世界大戦に参戦より、再び戦線取材へ向かう。


そしてここから、兵士達に従軍、最も熾烈な戦闘の最前線で「戦争写真家ロバート・キャパ」として数々の名作を生み出すこととなる。

北アフリカ戦線、シチリア攻略、ナポリ攻防線、ノルマンジー上陸、(ノルマンジー上陸作戦時では第二次大戦中最高の傑作の一つとされる写真群を撮った) パリ進攻、アルデンヌ大会戦、パリ解放、バストーニュ戦線など歴史的激闘の最前線に、また、1945年にはアメリカ空艇部隊とともにライン河を超え、パラシュートで降下しドイツ本土に入った。

そして、此処でヒトラーが自殺した、ドイツ軍の敗北と降伏を撮る。


1945年5月、ロンドンで欧州戦線の終戦を迎える。



戦争が終わってからは、各地で大きく状況が変化した戦後の街や人々を取材した。
キャパはそれまでも、取材先では必ず子供達や街の人々の情感溢れる素晴らしい写真を沢山撮っている。また、大戦時の写真も、はじめは戦闘そのものの写真が多かったが、だんだんと兵士達の束の間の素顔や、死を覚悟して出撃する、その後ろ姿に焦点があてられるようになった。

フォト・ジャーナリストを目指した時から、国境を越えて、様々な状況・体制下に置かれる人々や、無邪気な子供達を撮り続けてきた。自国の未来のために、暴動、反乱、革命へと流れ行く人々を見た。兵士達と共に、死と背中合わせの最前線では、想像を絶する地獄絵を幾度も目の当たりにした。戦後、勝敗が国家や人々のその後の明暗を分けたように、いつの時代にも、幸運に意気高揚する者と、その背後に、苦難を強いられる不運な人々がいた。
そして、すべてを狂わす戦争という狂気の中で、無常を、人間という存在の究極の姿を、矛盾や弱さ、残酷さをも、レンズを通して見つめてきた。



しかし、キャパは、
「それでも私は人間が好きだ。」と言った。

終戦という、戦争写真家にとって休息の間に、「こんな名刺を刷ったのだ。」と、周囲に見せたことがあるという。その名刺は、

ロバート・キャパ

      戦争写真家 
     
           失業中


「すべての戦争が終わった今、私は失業した戦争写真家となって非常に幸せだと思った。私は自分の人生の終わりの日まで、戦争写真家として失業のままでいたいと願った。」という言葉を残している。



一時キャパは、かの世界的大女優イングリット・バーグマンと2年程の間、熱烈な恋をした。が、ホームベースのパリでさえも、ホテル住まいで1つの家具も持たなかったという孤独なフォト・ジャーナリストの気持ちは、結婚までは動かなかった。
1954年4月、毎日新聞社に招待され、日本を訪れる。
東京、静岡、奈良、大阪などの、やはり街角の子供達の写真を撮っている。
この滞在中にライフから、1ヶ月間現地を離れなければならないという、インドシナ戦争下にいる写真家の代わりを要請され、それを引き受けて5月、ハノイへ。
このベトナム、ラオスで、彼の最後の写真が撮られることになる。
5月25日、フランス護衛部隊に同行したキャパは、部隊が一時停止している時に、ひとり部隊から離れ、道端へ出た。
 
その道端で、地雷を踏んでしまう。.












フォトグラフス
ロバート・キャパ写真集
文:リチャード・ウェーラン
  コーネル・キャパ
訳:沢木耕太郎
(株)文藝春秋


ロバート・キャパ写真集
「戦争・平和・子どもたち」
文:リチャード・ウェーラン
  コーネル・キャパ
JICC出版局


ちょっとピンぼけ
ロバート・キャパ著
訳:川添浩史/井上清一
発行者:越後谷勇治郎
(株)ダヴィッド社


『CAPA&CAPA』写真展
企画構成:コーネル・キャパ
       リチャード・ウェーラン
        イーディ・キャパ
       アナ・ウィンド
       久保田博ニ
国際写真センター ニューヨーク
マグナム・フォト東京支社
    
    兄は子供の頃に両親から注がれた深い愛情を
    再投資し、今度は自分が優しく全世界の子供達に注いだ。
    彼の写真は、人を愛し続けた孤独な魂である。      
コーネル・キャパ






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EVER



by guttersnip